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2010年10月
色と香りを楽しむ菊花の宴

『源氏物語の色辞典』「幻」より菊のきせ綿
源氏物語の色辞典』「幻」より
菊のきせ綿

旧暦の九月九日は五節句のうちの重陽の菊の月である。中国では奇数が陽にあたる数字であり、その極めの数の九が二つ重なるところから、重陽の節句とした。永久なものの意から、めでたい日とされてきたのである。新暦でいうと今年は十月十六日で、ちょうど菊の花の盛りであるから菊花の宴ともいったらしい。

日本ではこのような習わしは、平安時代に定着したそうで、宮中では天皇が紫宸殿に出て華やかな宴が催された。音楽が奏でられ、舞が演じられて、さらには詩も講じられ、そのあとの饗宴には、菊の花びらを浮かべた酒もふるまわれた。菊にまつわる節会のなかで、最も興味深いのは「菊のきせ綿」である。その前夜に、菊に霜が降りて花の色と香りが逃げてしまわないようにと、黄色、赤色、白とそれぞれの花の色に合わせて絹の繭から造った真綿を染めて、花の上から平たくかぶせて覆ったのである。

清少納言は『枕草子』にこの様子を記している。

九月九日は、暁がたより雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひたる綿などもいたくぬれ、移しの香ももてはやされて。つとめてはやみにたれど、猶くもりて、ややもせばふりおちぬべく見えたるもをかし

この時代の菊花は今のように丸く大輪を咲かせる立派なものではなく、野路菊のような平たい花弁の、やや小ぶりのもので、色も白、黄、赤ぐらいだったそうである。これに植物染料で鮮やかに染めた真綿を着せて、色と香りを残して菊花の宴を迎えようとする気遣いは平安時代の王朝の女人たちの心であったろう。

真綿は宴が始まると同時にはずされるが、そこには花の色香が移っていて、この綿で顔や身体をぬぐうと、老いをなくするとされていた。仙人の里に咲いたという長寿延寿の菊を愛でて、菊の花びらの浮かんだ酒を飲み交わし、菊の花の香りが移った真綿を身体にあてて、九という数字が重なる永遠の日にいつまでも麗しくと願う重陽の節句の由来である。ただ、こうした行事は、天皇を中心とする公家の間で行われ、後には、政権を担った武士がまねたが、一般の庶民には浸透しなかったらしく、我々には余りなじみのないものではある。だが、こうした節会の様を思うと、黄色の菊に着せた真綿は何の植物の染料を使ったのか、私だったら、この季節にちょうど近江の伊吹山から刈安の草が届くのでこれで染めてみたことだろう。

菊の花でもう一つの平安朝を思い浮かべるのが、仁明(にんみょう)天皇である。仁明天皇は、平安京に都を遷した桓武天皇の子供の嵯峨天皇の第一子であるから、桓武帝の孫にあたる。藤原氏が他の貴族を抑えて力をつけはじめた頃で、権力の座に近づこうとして、娘を天皇と結婚させて婚姻関係を結ぼうとしていた。仁明天皇は藤原北家冬嗣の娘順子を妃とした。天皇は義理がたい人であったのか、即位にあたってはその地位を譲ってくれた叔父にあたる淳和(じゅんな)天皇の子供、恒貞(つねさだ)親王を皇太子にした。だが、権力を維持したい藤原氏は順子との間に生まれた第一皇子、道康親王を皇太子にすべきだと主張した。これによって承和(じょうわ)の変という悲劇が生まれて、仁明天皇自ら出家してしまった。天皇はことのほか菊の花、それも黄色のものを好んで、宮中に数多く植えさせて楽しんで観賞したばかりか、衣裳などにも黄色に近いものを染めるように命じたので、在位中には菊花の黄色が流行していたという。こうした因縁を持つ色を承和色そがいろ)というのは、天皇が在位されていた年号が承和(じょうわ)年間であったことから称され、それがだんだんと変化して承和菊(そがぎく)というようになったといわれる。

染織史家・吉岡幸雄

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